(前編・プロポーズ編からどうぞ)
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平尾台での思わぬサプライズから一夜明けた朝。今日から2日間、私の実家で過ごすことになっている。
ちなみに私の実家は北九州市ではなく、福岡県・遠賀郡(おんがぐん)。JRの最寄り駅は折尾駅(おりおえき)です。
ニレーシュが新幹線や電車でずっと「折尾にはオリオ売ってるのか」と聞いてきてめんどくさかった。
(ニレーシュは駄洒落が好きで、いやというほど聞かされる。笑うまで何回も言ってくるし、笑ったら笑ったで「おもしろかったのか」とよろこんでさらに繰り返し言ってくる。ちなみに今回のは日本ではOREOを「オリオ」とは発音しないし、ましてそう発音するとしてもコレはおもしろくはないと思う。)
そのオリオに向かう前に、朝から山口県下関市の唐戸市場(からといちば)に寄り道した。
以前妹と来たことがあったのだけど、港の雰囲気も市場の中もおもしろかったし、なにより北九州から山口県につづく道路や橋(門司のけしき、関門海峡、関門橋などなど)が好きだったので、一度いっしょに通りたかったのだった。
*
さて、唐戸市場の駐車場でニレーシュは車をじょうずに駐めた。
ニレーシュは駐車が苦手で、免許のない私でもハンドルの切り方を説明したくなるほど危なっかしい。そのせいで駐車の1回1回が記憶に焼きついてしまう。そしてじょうずに駐められたときは「今日のはどうだ」と自慢してくる。
インドでは縦列駐車が基本らしく、また駐車スペースも広いらしく、日本では必須の横列駐車スキルはそんなに求められないらしい。人口13億人もいるのにみんな縦列駐車なのかな。ほんとかな。
日差しギラギラの唐戸市場では「イルカの見えるレストラン」の外からイルカを眺めて、海洋館でクジラの骨を見て、ソフトクリームを食べて、市場の中をウロウロした。
ニレーシュ自己紹介Tシャツ(私・作)
唐戸市場でお昼ご飯をたべよう!
市場内はお昼ごろには魚の販売は終わって、観光客への食事を提供しているお店が多い。
知らなかったのだけど、どこのお店でも最近はお寿司を1貫ずつ買えるようになっていた。自分でトングで取って、折り詰めに入れていく形式。その他にも海鮮丼、ふぐの唐揚げやフライ、練りもの、天ぷら、ふく刺、ふく汁(山口ではふぐのことを「ふく」と呼ぶみたい)があちこちのお店で提供されていた。ビールやお茶、ソフトドリンクも氷の中でよく冷えていた。
気温35度くらいありそうで始終暑かったが、場内の椅子やテーブルは常にほぼ満席で、あぶれた人は炎天下でお寿司を食べたり飲み物を飲んだりもしていた。
ニレーシュはマグロとふぐのお寿司、私はイカとしらすのお寿司、それからホタテのバター焼きも一緒に食べた。
お寿司は小倉の「市場寿し」ほどではないねというのがニレーシュの感想だった。わたしも同感。でも市場や人で賑わうお祭りみたいな雰囲気を楽しむのにはとてもいい場所だった。
さらっと観光も終えて、小倉にレンタカーを返しに向かう。
今回は無傷で返却できました。祝。
いざ、鹿児島本線で小倉駅から折尾駅へ。快速で20分。各駅停車で30分。
私たちは日ごろ英語半分、日本語半分で会話しているのだけど、ニレーシュは私の家では英語を使わないと決めていて、電車の中でも「2人で話すときも日本語でね」と念を押された。私の両親に安心してもらいたかったのだと思う。「お父さんにOREOのギャグ言ってみよう」と意気込んでいたので「それは本当にやめて」と止めた。多分お父さんオレオ知らない。
駅に迎えに来てくれていた父はニレーシュ以上に緊張しているように見えた。
「おかえり」とハグのかわりに、「ようこそ」と握手が交わされた。
それでも家へ向かう途中、「お前たち明日海水浴行ったらどうや」と海岸沿いの道路を通って道を説明してくれたり、近所の温泉があいている時間を教えてくれたりと、色々と考えてくれていたのが伝わってきた。
昭和気質のうちの父
家につくなりさっそくグラスを用意して、よく冷えたビールをニレーシュと私に振る舞ってくれる。
運転しなくてはいけないからと我慢していたのと、緊張していたのとで早くお酒を入れたかったのだと思う。
父は昔からお酒が大好き。その後にはタバコ、競馬、相撲、きれいなお姉ちゃんなどが続く。根っからの昭和気質の人だ。そんな嗜好でしかも来年70歳になるが、大きな病気はせずに元気でいてくれる。
「お酒飲みすぎないでね」とか「タバコ減らしてね」とか「お母さんと仲良くね」とか、子は父にいろいろと要求するけど、父の方から「こうしなさい」「ああしなさい」と言われることは子供の頃から全くといっていいほどなかった。
まあ父だって私たちの要求を聞くことなんてほとんどない。自分にとって耳が痛い話は「むつかしことどうでもええねん」「ややこしこと言うな」で受け流す。自分も人も束縛しない、自由人だ。
これまで父の描写をするたび、ニレーシュは驚いていた。確かにインドでの一般的な父親像とはかなり違いそう。
午後3時からみんなでビールをちびちび飲みながら、父が質問し、ニレーシュが返事をする、という感じで仕事や生活、友だちのことなんかを話した。父もニレーシュも頑張ってくれていることが分かるのに(分かってしまうから)、私が妙にソワソワしてしまう。
こういう時にいちばん頼りになる母はまだ仕事中で家におらず、「オモニは何時に帰ってくるの」と父に何度も聞いてしまった。
我が家は在日韓国人の家庭で、昔から父、母を「アボジ」「オモニ」と呼ぶ。ニレーシュもそれに合わせて私の両親を「アボジさん」「オモニさん」と呼んでくれた。日本語にすると「お父さんさん」みたいな変な感じだけど、我が家らしくていい。
芦屋町の海鮮レストラン「海の駅」で夕食
16時半過ぎに母がようやく帰ってきて、多分みんなちょっとホッとしたと思う。
自己紹介もそこそこに、海の近くにおいしいご飯屋さんがあるから、ということで、みんなで出かけることにした。
到着したのは「海の駅」という名前の海鮮やさん。ランチもやっているそうで、待ちが出るほどいつも大賑わいらしい。メニューが手書きかつ何ページもあったので、ニレーシュに「海老づくし定食」を、自分には「お刺身定食」を選んだ。ちなみに父も母も「お刺身定食」だった。
これは海老づくし定食
母以外の3人はビール、母はお水を手に、またお喋り。両親が質問して、ニレーシュが返事して、私が何かつけ加える。
ニレーシュは聞かれたことに答えるだけではなくて、自分の意見を言ったり、質問に関係する根本的な部分を説明したりと、何の問題もなく会話している。父も母も、ニレーシュのことを知ろうと色々質問してくれて、その返事を楽しんで聞いてくれている。
私はみんなに甘えて1人リラックスしはじめていた。ビールを美味しく感じる余裕も出てきた。
食事は食べきれないほど出てきて(特にニレーシュの海老づくし定食がすごかった)、食べきろうするニレーシュに母と私が「無理に食べないで、残してね」と伝えた。それなのに、お店を出ながら父が「お前海老の刺し身のこしたな」とニレーシュにひと言。父は多分仲良くなったしるしにからかってみただけなのだけど、可哀想にニレーシュはビビっていた。
筑前あしや 海の駅 (芦屋町) の口コミ8件 - トリップアドバイザー
芦屋の海岸散歩
食事のあと、「ちょっと腹ごなしじゃ」と父が言うのでお店のすぐ隣りに広がっている芦屋の海岸を散歩した。サンダルで歩けるような岩場になっていて、左手がわに海、右手がわには神社のある大きな岩、正面には夕日が沈みかかっていた。
早く先を見せたくて先頭をずんずん進んでいく父と、一番うしろを歩く母。私たち4人兄妹はいつもこの2人の間で育ってきた。2人きりになった両親には両親なりの歩き方があると思うのだけど、それがどんなふうなのかよく知らない。
ニレーシュは私にとって今いちばん身近な存在だけれど、子供というもっと身近な存在がこのあと私たちの間にできて、いつか離れていって、また2人に戻って…というその一連の時間と家族の流れを、私とニレーシュもこれからやっていくのかな、とぼんやりと思った。
午後7時になってもまだ日は沈んでいなかった。
涼しくなった夕暮れのビーチで子どもたちが泳いでいて、「昔みんなで海に行ったとき…」と母が子どもの頃の思い出話をした。私もその時のことを思い出して「そうだったね」と答えた。父は黙っていた。父はその時そこにいなかったのだ。
私も兄妹もみな、家族の行事を楽しみにしてくれる今の父がとても好きだ。子供のころは一緒に過ごす時間があまりなく、半ば母から印象づけられるように受け取った「父親像」を通して父を見ていた。母は母で、そうして4人の子育てを乗り切らなくてはいけなかった。父は父のやり方で、私たち兄妹の知らないところで人生の苦境を切り抜けてきたのだと思う。
父の人間くさい、少年のような人物像を理解したのは大人になってからのことだった。父自身も、今でもそんな自分を発見し続けているのだろうと思う。野菜を育てたり庭をととのえたり、父が楽しそうにしていると何より嬉しい。
そんなことを考えていたら、カメラを忘れた私のかわりにニレーシュが家族写真を撮ってくれた。
車に戻って家へ向かう道、海岸を振り返ると真っピンクの大きな夕焼けがちょうど海に沈み始めたところだった。
「見て!」とみんなで振り返り、一瞬の燃えるような空を楽しんだ。「まだ間に合うかも」と母が夕日の見える丘に連れて行ってくれたけれど、駐車場に着いた頃には鑑賞を終えた人々が車に戻ってきていて、ちょうど沈んでしまったところのようだった。
それでもみんなで丘の上まで行って、もういちど海を見た。「この向こうは韓国かな〜」とか言いながら。
父が「お前たちあれ鳴らしてこい」というので、私とニレーシュは恋人たちの鐘「響愛の鐘(ひびきあいのかね)」も一緒に鳴らしておいた。
帰宅後、父は早々とおやすみモードになって、ニレーシュは深夜12時から始まるワールドカップの決勝戦を見たいからと一旦就寝。
母と2人でお喋りする時間ができて、ソファでゴロゴロしたりアイスを食べたりしながらくつろいだ。母はニレーシュがワールドカップの決勝を見たがっていることを察して「リビングで見たらいいよ」と言ってくれて、朝から仕事していたのに「私も一緒に見ようかな」とずっと起きていてくれた。こういうときの母の細やかな気遣いにはいつも驚く。
さすがに起きれないだろう、と思っていたらニレーシュは本当に12時ぴったりに部屋に戻ってきて、母と3人でワールドカップを見た。
フランス対クロアチア。サッカーを見るのが苦手な私にもおもしろい試合だった。でもハイライトは、表彰式でプーチンにだけさされた傘だった。
2日目は岩屋での海水浴からスタート
次の日の朝、母が作ってくれた豪華な朝食(庭の畑で採れた野菜がたっぷり)を食べた後、父の車を借りてニレーシュと海水浴に出かけた。水着を忘れたニレーシュに父が水着を貸してくれた。
出発の前、「車の使い方の説明もかねて、この辺ぐるっと一周まわってこよ」と父を助手席に乗せて家の周辺を5分くらい運転しなくてはいけなかったのが、ニレーシュがこの旅行で一番緊張した瞬間だったんじゃないかと思う。さいわい駐車の試験はなく、父は快く車を貸してくれた。
やってきたのは岩屋海水浴場。
岩屋のビーチで泳いだのは初めてだったのだけど、
・水はとてもきれい
・人も多すぎない
・浅瀬の部分が広くて砂浜からけっこう遠くまで泳げる
・7月中旬でも水は冷たすぎない
・岩場は少ししかないし、しかも水が綺麗だから避けられる
という条件で、かなりいいビーチだと思う。ビーチの両端に海の家もいくつかあるみたいだった。使用料500円。コインシャワーは300円というお値段設定。
1日ずっと私の家族と過ごしてくれたニレーシュも夏休みらしいことができてリラックスしてるみたいだった。そういえば2人で海水浴するのは初めてだった。父が貸してくれたシートと、クーラーボックスには氷とコーラとオランジーナを入れてきた。
海外のビーチリゾートもいいけど、こんな馴染んだ土地でふらっと出かける海水浴ほど贅沢なものはないなと思う。「海の近くがいいかな、山の近くがいいかな」。いつかそんなふうにニレーシュと住む場所を探したい。
海と砂浜とを3回行き来して、思う存分泳いだあとは、夜のバーベキューに備えて「とと市場」を覗きに行った。採れたてのお魚、牡蠣やサザエなんかの貝類、お弁当、ソフトクリーム、コーヒーやお肉やさんまである道の駅みたいな場所で、休憩にもちょうどいい。ソフトクリームを半分こした。牛乳が新鮮みたいですごく美味しかった。
家に帰ると父と母もどっさり食材を買い込んでいた。
近所に住む母方の叔母(私たち兄妹は「イモちゃん(=叔母ちゃん)」と呼んでいる)も顔を見に立ち寄ってくれた。祖母の代からやっている焼肉屋さんを引き継いで、60歳になった今もお店を開けている可愛い叔母ちゃんだ。実家に帰るといつも一緒に遊んでくれる。わざわざ来てくれたのに、店の昨日の片付けしてない、と早々に帰っていってしまった。イモちゃんありがとう。
申家恒例! 裏庭バーベキュー大会
バーベキューは18時にスタートした。
実家の裏庭には父が作ったバーベキューサイト?があって、帰郷すると1度はそこで食事をする。父が火をおこして、母が食材を準備して、みんなで準備を手伝って、飲み物もたくさん冷やして、虫よけもたくさんつける。海のものも陸のものも畑の野菜もたくさん焼いて、お腹いっぱいになるまで食べながらお喋りをする。
私とニレーシュは「結婚の約束をしました」と報告できていなくて、今日は言わないと…と思いながらも時間が過ぎていっていた。
ニレーシュは「どのタイミングで言えばいいのか分からない」「しずえが助けて」と及び腰で、私も両親の前で「今だ!」とは言えないしなあ、と先延ばしになっていた。
正直、いいよどのタイミングでも、と思っていたのだけど、そう思うのはそれが私の両親だからなのだろう。私もニレーシュの実家で大事なことを伝える時に「いいよどのタイミングでも」と言われたら不安になると思う。
結局、言えたのはバーベキューも終わり、お酒も飲み疲れておやすみモードになった父が「俺そろそろ寝るで」と寝酒のウイスキー片手にリビングを去ろうとした時だった。明日になればもう神奈川に戻らなくてはいけないし、帰る日に伝えるのでは父も母も寂しくなってしまいそう、と思った。それで隣りにいたニレーシュを肘でつついて、「今言って」と伝えた。
ニレーシュは「なんて言えばいい」とひるんでいたけど、「しずえと結婚したいと思っています」と、「明後日からインドに帰るので私の両親にも話してきます」と言うことははっきり言ってくれた。
父はドアの前で固まったまま沈黙の時間がしばらく流れて、ニレーシュを怖がらせていた。父がなんて返事をしたか全部は忘れてしまった。「まだそういう話にはなってないって聞いてたからびっくりしてしもた」ということと、「僕は君のことが好きよ」とニレーシュに言ってくれたことは覚えている。それから「お前はいいのか」と私に聞いたので、「うん」と答えた。もう少し気の利いたことが言えたら良かった。母は父の後ろにいて涙ぐんでいた。私も泣きそうになって「ありがとう」と言うので精一杯だった。
父が部屋に戻って静かになってしまったリビングで、興味もないTV番組にしばらく沈黙をごまかしてもらっていた。
夜のアルバム鑑賞会
ぼーっとテレビを見ていたら、母が山ほどある家族・兄妹のアルバムの中から私のものを出してきてくれて、ニレーシュと一緒に懐かしい写真をたくさん見た。
私が昔の写真に大笑いしていたら、母が「あんたたちと一緒に見てるときは楽しいけど、1人で見ていると色々思い出して悲しくなるんよ」と言ったのが胸に刺さった。母が1人でアルバムを見て悲しくなっている姿を想像して、なんとも言えない気持ちになってしまった。2人の近くで、嫌になるくらい日々顔を見ながら暮らせたらいいのに、今の私にはそれができない。気づいたら19歳で家を出てから、もう15年も経っている。
そんなしんみりする私の隣りで、ニレーシュは「この年でこのテレビがもう家庭にあったのか」とか、「冷蔵庫が家庭用とは思えないくらい立派だ」とか、「この家電はインドでは私が大人になってから普及した」とか言いながら、インド ー 日本 の経済成長進度の比較という独自の観点でアルバムを鑑賞していた。
小さい頃の私を見なさいよ、と思ったけどそれはそれでニレーシュらしくて笑えた。
またすぐ会おうね、の最終日
朝起きたら母がもうお化粧をしていた。「今日はみんなで写真を撮ろう」と準備してくれていたのだった。
また母の作った朝食をお腹いっぱい食べた。庭でできたししとう、すごく美味しかった。
食事のあと、私もニレーシュも着替えて、散歩から帰ってきた父もお気に入りのシャツに着替えてくれた。
写真は家の前とリビングで撮影した。母が写真を撮ろうと言い出してくれてよかった。帰ってきてからの数日間、もう何度も見返している。
父が運転し、母が助手席に座って、また折尾駅まで送ってもらった。
改札を通って2人が見えなくなったら涙がでてきてしまった。2人は何を話しながら家に帰るのだろう。
体調を崩したり、仕事を辞めたり、何ヶ月も旅行にでかけたりと心配させてばかりの私を、急かさず、文句も言わず、何歳になっても「しいちゃんが幸せなのが一番大事」といつも寄り添って見守ってくれる両親に、「私にも大切な人ができたよ」と報告できるのは私にとって何よりも嬉しいことだった。
…小さなことも覚えておきたい時間だったので長々と書いてしまった。
ニレーシュはこの次の日から10日間インドに帰郷。私はニレーシュのご両親に会う日のために、ヒンディー語の勉強をはじめてみることにした。夢のクァドリンガルなるか…! って、どれももっと勉強が必要だけど。
ということで、詳しくはまた今度。
読んでくれてありがとう。
Thanks for reading.
읽어 줘서 고마워요.
Padhane ke lie dhanyavaad.