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インド人の夫とベルギーで2人暮らし中。30代前半から仕事を辞めて海外1人旅をスタートし帰国後夫と出会って国際結婚したり海外移住したり。何歳になっても勉強しながら楽しく自由に生きることを誓います。

在日韓国人だった35年間を振り返る。私に見えていた日本

日本で35年間暮らしてきた。
時に子として/高校生として/大学生として/フリーターとして/会社員として、そして常に在日韓国人として。
そして去年、夫とベルギーに移住してきた。

在日として日本で暮らしたその35年間を「幸せだった」とか「大変だった」とか「そうでもなかった」とか、そんなふうには表現できない。私は私の人生しか経験していないので相対的な結論はつけられない。

私の名前は「申 静恵」と書いて、韓国語では「シン・ジョンへ」と読む。日本語では「しん しずえ」。

韓国と私の関係

韓国語は大人になるまで勉強したことがなかった。

話せるようになったらもう少し自分の出自を理解できるかも、と大学時代に1年間ソウルに交換留学させてもらった。
それまで特に韓国について深い知識があったわけではなく、日本から留学に行った人たちと同様に色々なカルチャーショックを受け、日本が恋しくなったりもした。

でも言葉が身についてくると次第に友達ができ、会話を楽しみ、韓国と自分のつながりのようなものも感じた。一方で韓国は自分にとっては日本より更に「外国」だということも知った。

その後韓国には友人に会いに時々遊びに行っている。せっかく覚えた韓国語を忘れないように時々読んだり書いたりする。

自分を嫌う誰かの存在を感じながら生きること

大学時代にインターネットが、社会に出てからスマートフォンが普及し始めた。
それまでぼんやりとしか知らなかった嫌韓思想、嫌在日思想との距離がぐっと縮まり、知らない誰かの敵意がダイレクトに手元で確認できてしまうようになった。

確認したかったわけではない。なんとなくネットサーフィンしていたり、Twitterを見ていたりすると突然あちらからやってくる。何度も忘れようとして、何度も忘れては、それでも何度もやってくる。それは少しずつ私の中に積もっていって、私の一部になっていった。

私個人に向けられた発言ではない、とは理解している。私の持っている属性へのリアクションだ。
その頃はまだ「ヘイトスピーチ」という言葉は広く使われてはいなかった。それが差別だとはっきり表現されるまでにも何年もの時間があった。

私はそれを見るたび、悲しかったり怒りを覚えたり「またか」と受け流したり、時に考え込んだりした。

例えば「すね毛の濃い男性は苦手」という個人の趣向を発言することと、「在日が嫌い」と発言することは違うのだろうか。違うとしたらどう違うのだろう。
前者も、対象となる人は気分がいいはずはないだろう。ただ、それを発言した人に撤回を求めることはできなさそうに思う。

どこに線引があるのだろう。該当する人に辛い思いをさせる可能性はあるとしても、人は嫌いなものを嫌いだと言ってはいけないのだろうか。

私は自分を守りたいがために「嫌いなものを気軽に口にすべきではない」というルール設定を必要としているのだろうか。ただ「嫌われる対称となることをやめたい」のではなくて?

「なぜ帰化しない」自分に問う日々

インターネット上に比べると実生活ではフェアでない扱いを受けることは少なかったが、引っ越しや在留カードの更新、再入国許可申請などで役所や入国管理局に行くのが苦痛だった。

違和感を感じず対応してもらえることも勿論あったが、それまで普通に会話していたのに在留カードを見たとたん態度や話し方を変える役所の人、最低限の礼節も欠いた高圧的な態度をとる入国管理局の人など、目に見える敵意を受け取って、やりきれない気持ちになって帰ってくることも多かった。

時に知人友人から「どうして帰化しないの」という質問も投げかけられた。
同じ質問を自分でも自分に何度も問うた。そのたびにうまく言葉で表現できなかった。

その質問の意図は、「不用意に人に傷つけられないようになりたければ帰化という選択肢もある。あなたはなぜそれを選ばない?」という友人知人の思いやりだったのだろうと思う。
ただ、それはどこか踏み絵のようなものに思えた。「韓国人」という名札を「日本人」に付け替えた人の問題は解決して、付け替えない人は「嫌われる対称であって当然」なのだろうか。名札を変えようと変えまいと、ここにいる私の本体に何の変化があるのだろうか。「あちら側に行けば安全」と、「こちら側」を捨てて船に乗るのは正しい行為なのか。

この国で誰かと結婚し子供を生むことがあったら、夫や義父、義母、子供にわだかまりや疑問を感じさせてしまうだろうか。子供が不必要に悩んだり、誰かに傷つけられることがあるだろうか。

これで何かが解決すると思えるような身の振り方はないような気がした。これが正しいと思える方法では特になかったが、私は日本人と結婚して日本で子供を産む時が来たら帰化しようと考えていた。自分の身近な人を傷つけることのないように。

差別の線引

時が流れ、ある時から急に「ヘイトスピーチ」という言葉が聞かれ始めた。私は30歳になる前後だった。

ヘイトスピーチ(英: hate speech、憎悪表現)は、人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである。

Wikipediaより 

人種や出身国、民族を攻撃したらヘイトスピーチ。曖昧だった線を引いてもらい、やっと自分に関するルールを受け取った気持ちがした。

「ヘイトスピーチをやめよう」という訴求が広がってきたことは、自分の精神衛生上とてもありがたいことだった。たとえそれがなくなりはしなくても、見知らぬ誰かの自分の属性に向けた攻撃的な言動を「これはヘイトスピーチだ」と括ってしまえるだけでも気持ちがずっと楽になった。

その後、今の夫ニレーシュに出会い、また少し差別と自分との関係に変化があった。 

茶色の肌で日本で生きること

当時ニレーシュはインドから日本に来て4年が経っていて、とても流暢な日本語を話した。

ニレーシュと日々を共にしてみて分かった。肌が茶色のニレーシュは、あからさまに差別的な対応を受ける場面が多かった。

会社の住宅手当を利用しようと彼の名義で家を借りようとしたのだが、仲介会社から大家さんへ掛けてもらった「外国人の居住は大丈夫でしょうか」という電話の時点でことごとく断られた。

「借り主はインドの方ですが勤め先は大手です、収入は十分です、日本語も話せます、同居される方は在日の方ではありますが勤め先は大手です、収入も十分です、日本歴は長いです」

外国人という事実への不安を打ち消すように並べられる彼と私の条件を毎週末、何度も繰り返し聞いていた。

担当の人は大家さんに許可をもらうために何件も電話をして頑張ってくれたのだし、大家さんも外国人を住まわせて嫌な思いをしたことがあったのかもしれない。誰も悪くないのかもしれないが、それでも心が疲弊した。

ようやく見つかったアパートに2年住んだ。退去したときニレーシュは「私たち家賃も1回も遅れず払って部屋もきれいな状態で返して、外国人の評価を上げたかもね」とニコニコしていた。とても堅実で優しい人なのだ。

ニレーシュと一緒に乗ったタクシーの中でお釣りを投げられたこともあった。知り合ったばかりの人に「どうしてこんな人といるの」と面と向かって聞かれたこともあった。

彼の方は失礼な扱われ方に気づくこともあれば気づかないこともあった。「自分が外国人だからこそういう対応なのか、その人がいつもそういう対応をしているのか、まだ判断がつかない」と言っていた。私は自分が嫌な目にあう時よりもずっと嫌な気持ちがした。

「日本人なのに」に感じる壁

話が少しそれるが、先日、とあるパキスタン系日本人の人が頻繁に職質され、その時の警察官の失礼な態度に困っている、という内容の動画がFacebook上に流れてきた。
国籍は日本で在留カードなど持っていないと言っているのに、警察官は「在留カード持ってなかったら逮捕ですよ」としつこく迫ってくる、という内容だった。
コメントには「日本人なのに見た目で判断されるなんてかわいそう」という意味の同情のコメントがいくつも並んでいた。

投稿者の男性は私やニレーシュとはまた少し別の困りごとを抱えていて大変だろうと想像しつつも、そのコメントに引っかかる。

日本に暮らす外国人が在留カードを持たずに例えばふらっと散歩に行ってそこで逮捕されてしまっても、「日本人じゃないから」当然なのだろうか。携帯が義務付けられているのは理解しているが、カードがないから即逮捕という扱いはたとえ外国人でも少し行き過ぎではないのか。この国に暮らす外国人は常にそれほど緊張して生きなくてはいけないのか。

「在日」が外れてからの日々

ベルギーに越してきて4ヶ月が経った。新しく会う人にはだいたい「何人?」と聞かれるので「日本で生まれ育った韓国人」と答える。
「在日」は取れたが、パスポート的に韓国籍ではあっても自分が修飾語なしの「韓国人」だとは思えない。
こちらはそう返事をするしかないように思えてそう伝えるが、みんな勿論そんな細かな事情を知りたいわけではないので「オーケー」で終わり、「東京に行ったことがあるよ」とか「韓国はあれが有名だよね」と続けてくれる。ここでは少なくとも私は「アジア人」になれた。

私は日本語でものを書き、日本語でものを考え、日本語で家族や友達と会話する。
日本に好きな人がたくさんいて、日本に私のこれまでのほぼすべての歴史がある。
それでも、ニレーシュと2人、日本にあのまま暮らし続けることは息苦しかった。少なくとも私には。 

ベルギーに来たのはニレーシュの仕事の都合で、わたしはまだこの国で仕事をしていない。勉強し、仕事を探して2人で生きながら、また少しずつ自分たちの住んでいる場所に馴染む努力ができたらと思う。

「在日韓国人」という名札は結果的に、自分という人間や生き方や社会について考えるチャンスも沢山与えてくれた。でもそんな名札はあろうがなかろうが、ただ生まれることができてよかった。自分の人生を生きるという権利を手にできてよかった。

 

日本は私にとっていい国だっただろうか。

母はいつか「こうして住まわせてもらえるのだからありがたいことよ」と言っていた。生まれたときから日本という国に何かを負うているように。私はそんなふうに謙虚には考えられなかった。

「日本は生きにくかった」と在日だった私が言えば、日本の誰かを少し傷つけるのだろうか。その傷は「在日死ね」の文字を読んでいる時の私の息苦しさと似たものだろうか。

私は在日として日本に生まれたこの自分の生しか知らない。

心のどこかで常に感じてきた生きにくさは、私のせいだったのか、日本のせいだったのか、確かめようとすることからはもう自分を解放しようと思う。

私は先に進むことにする。自分の住む場所を自分で自由に選べるよう、新しい日々を積み重ねていくことにする。 

 

すべての人が、自分の生を、誰にも邪魔されることなく肯定できますように。
そして何より、あなたが、あなたの生を、誰より最初に肯定できますように。 

ただ切に願っている。

 

 

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