全体的に体毛が多いニレちゃんはいつも大体鼻毛が出ている。
付き合いはじめて最初の頃は、恥ずかしい思いをさせてしまうかと気になってどうも直接「鼻毛出てるね」と伝えられなかった。
最初はたまたまだと思った。たまたま気づかなくて、そのまま家を出てきてしまったんだ、と。
でもデートを重ねてみると、会う時に鼻毛が出ている確率はほぼ100%に近いということがはっきりしてきた。
「この人は自分で気づかないんだろうか…」と疑問に思いながら意味ありげに鼻のあたりをしげしげ眺めてみたりした。でも気づかない。
かなり立派なやつだ。ちょっとはみ出している、程度じゃない。
「いらっしゃい!」と八百屋で元気に店番している若い衆くらい前のめりで出ている。これ、気づかないっていうのは不可能じゃないのかな…。
その存在に心を囚われている私を完全に無視するように、いつも鼻毛は堂々と鼻から飛び出していた。そしてニレーシュの鼻毛に対する意識の薄さを私に教えてくれていた。
鼻毛にして鼻毛にあらず
しばらくして親しくなったという実感が湧き、心の準備もできてきて、鼻毛をコソコソと気にしていることにも耐えられなくなったある日、笑いながらさり気なく伝えてみた。
「ニレーシュ、鼻毛出てるよ」。
「えっ」と焦るそぶりもない。至って落ち着いた表情のまま、返ってきた返事は「ああ、ひげが上まで生えてるだけだよ」だった。
そうか、ひげか。ひげだったのか。それはそれは。どうも失礼しました。
いやいや。違う。これで引き下がる訳にはいかない。
「ううん、鼻から出てるから鼻毛だよ」
「そうか。後で見てみる」
鏡かそうか?と聞いてみるも断られる。いつ見てみるんだろう。トイレに行くときか。
結局私はその日も鼻毛が出たままのニレーシュと1日を過ごした。勇気を出した初めての鼻毛の指摘は敗北と言っていい結果に終わったのだった。
「恥ずかしさ」を刺激してみる
少なくともニレーシュは鼻毛が出ている状態を恥じてはいない、ということが判明してから、私は少し強硬な態度に出ることにした。
「ニレーシュ今日も鼻毛出てるよ」
「おしゃれしてても鼻毛が出てたら台無しだよ」
「ニレーシュ会社で『鼻毛ちゃん』ってあだ名付けられてたらどうするの」
「今のウエイトレスさんも『あの人鼻毛出てる』って思ったかもしれないよ。あ、あの人かっこいい。あ、でも鼻毛出てる…ってがっかりしたよ、絶対」
言葉責め。
…そんな努力と嫌がらせの積み重ねの甲斐もあり、ニレーシュはいつしか私の普段使いのハサミを鼻につっこみ鼻毛を切るようになった。切った後は「ほら、もう出てないでしょ」と鼻を持ち上げて穴の中を確認させられる。
ハサミとのお別れは残念だったし、鼻毛処理のプロセスにチェック要員としてに組み込まれたのも無念だったけど、これでやっと鼻毛バトルは終わるのだと密かに勝利を喜んでいた。
鼻毛と私の長い戦い
2年とすこし経った今。私が普段あいさつ以外で1番多く口にしている言葉は間違いなく「おならしないで」と「鼻毛出てるよ」だ。
ニレーシュは一度失敗したせいでハサミを鼻に入れるのが怖くなったらしく、今でも上手く鼻毛を切れないらしい。
鼻毛が出ているのがちょっと恥ずかしいという気持ちは無事に根付いているようで、それに対する言い訳もされるようになってきた。
その言い訳にもいろいろバリエーションがあって、
「しずえの鼻毛は鼻が低いから見えないだけだ」とか(失礼)、
「インドは空気が汚いからインド人は遺伝子的に鼻毛がたくさんある」とか、
「インドには耳毛がすごいおじさんが沢山いて鼻毛どころじゃない」とか。
耳毛すごいおじさんは画像検索までして見せてくれる。
今は君の鼻毛の話をしているんだよ、と言いたくなるけどちょっと気になるので一応見せてもらう。
長い戦いのすえ、結局私は鼻毛に勝てなかった。
最近は戦意も喪失してきて「もういいか…」と諦めそうになっている。
鼻毛パトロール隊員じゃあるまいし、そんなに人の鼻毛ばっかり気にしている自分のほうが頭がおかしいんじゃないかという気さえしてきた。
何もしなくても鼻毛が鼻から出てこない私には、鼻毛が鼻から出てしまう人の気持ちは分からないのだ。
自分の顔の上に、自分の思い通りにならないものがあるってさぞ不便だろう。
朝大丈夫だと思っても、昼には飛び出してしまっているのかもしれない。
そんなことを毎日繰り返していて、本人もいつしか見て見ぬふりをするようになったのかもしれない。
私ももう鼻毛のことを考えるのはやめよう。
夫婦の間にも埋められない価値観の違いがあるという事実に初めてそっとフタをして、鼻毛についての考察を書き続けたいこの両手を静かに止めることにする。
白旗。