外に座っているホームレスの人を見るたび、私は父を思い出す。冬の寒い日は特に。変な思考の「くせ」みたいなもので。
大学1年生の頃に父方の祖父が亡くなった。
私は当時はもう東京で一人暮らしをしていた。
どこで、どのように連絡を受けたのかは十数年の月日が経つうちに忘れてしまった。11月の、寒くなり始めの頃だった。
祖父の家がある大阪に、家族や親戚、知人、友人が集まった。
私はお通夜には間に合わず、お葬式の日に大阪に着いた。
式場はどこだったか、どうやって式場までたどり着いたのか、久しぶりに思い返そうとしてみたけど、もうそれも忘れてしまっている。
両親は熊本の実家から出てきていた。
熊本でもない、東京でもない、全然知らない土地で両親と顔を合わせるのを、なんだか不思議に思ったのははっきり覚えている。自分が確かに親元を離れたのだと、そんな場所で改めて自覚したのだった。
お葬式も落ち着き外が暗くなり始めた頃、父が1人でタバコを吸いに外へ出た。記憶の中では降っていた雨が止んだような、そんな天気だった気がする。
状況についてのあまりにも記憶が曖昧で、記憶がまとっている何となくの空気を無理やり映像に落とし込むようにしてしか思い出せない。
ほとんど忘れかけている夢を思い出そうとするような感覚になる。
そんな曖昧な記憶の中で、はっきりと覚えている出来事がある。
葬式も終わり、人も帰り始めたところで父がタバコを吸いに外に出た。父の背中を追いかけて、私も一緒に外に出た。
何を話すともなく、ただ父がタバコを吸っている隣りにいた。
それまで、父の悲しそうな顔、というのをあまり目にしたことがなかった。
泣くでもなく、感情を言葉にするでもなかったけど、ただ誰が見ても「この人はいま悲しいんだ」とはっきり分かる顔をしていた。
タバコを吸っている父の隣りには、ホームレスのおじさんがいた。静かにそこに座っていた。
見ないようにしていたのか、自然にそういう対応が身についていたのか、私はおじさんを意識していなかった。
父の方からおじさんに「寒くなりましたね」と話しかけた。
おじさんも会話が始まるのを知っていたみたいに、自然にそれに答えた。
知り合い同士のようなその会話の始まり方に私は内心びっくりしていた。
父がホームレスの人にどういう態度を取るかを見たことはなかったし、そもそも父が家の外でどんな人か私は知らなかった。
二言、三言とまた会話がつながる。おじさんもよく話す人で、父は「そうですか」と聞き役に回っていた。
タバコの火を消して、携帯灰皿に吸い殻をしまいこんだ父が、立ち去り際、「そしたらまた」と言いながら1万円札を取り出しておじさんに渡した。
その時そこで渡すことが決まっていたような自然な渡し方で、おじさんの方も自然な受け取り方だった。
同情でも、哀れみでもない、
お互いぼちぼち頑張りましょう、と父が自分を励ますためのお金だった。
寒い中座っているホームレスの人を見るたびに、私はあの時の父を思い出す。あの日の自分の気持ちを思い出す。
今年は父が70歳になる。
相変わらずお酒も元気に飲んで、タバコも元気に吸っているけど、至って健康そうだ。
このまま健康でいつまでも長生きしてほしい。そんな勝手な願いを込めて、私も毎日見かけるホームレスの人に時折お金を手渡す。
ぎこちないし、自然な会話もできない。
恐縮させてしまって、かえって申し訳ない気持ちになる。
この人はどんな人生を歩んできてここに座っているんだろう。
父はいま何をしてるかな。
父についての知らない一面を、私はあとどれだけ知れるんだろう。
その場を後にしてから、しばらくそんな気持ちに浸る。
私は次の冬もその次の冬も、十年先も間違いなくあの日の父を思い出す。
寒空の中のホームレスの人を見るたび、いつも気持ちがきゅっとなる。