私の父は20代後半からずっとパチンコ屋の仕事をしていた。
その前は和食の板前だったり、ゴルフ場を作る仕事をしていた時代もあったらしいのだが、母と結婚する前から引退まではずっと熊本でパチンコ会社のお勤め人をしていた。
私は母も父も在日2世なのだが、父は在日というより大阪人だ。
大阪生まれ大阪育ちで、熊本と福岡で40年以上の歳月を過ごした今でも大阪弁で話す。田舎に帰ると「お前の大阪弁は古い」と言われるらしいのだけど。
父が勤めていたパチンコ屋の支店長になったとき、私は幼稚園生だった。そのあたりからうっすらと記憶がある。八代(やつしろ)の家から、熊本市内の東バイパスの家に引っ越した。地元の人は「ヒガバイ」と略す、国道沿いの。
私たち家族はパチンコ屋の上の立体駐車場の、更に上の階に作られた社宅に住んでいた。社宅のすぐとなりの部屋が事務所だったと思う。従業員さんたちと顔を合わせる機会が多く、いつも可愛がってもらっていた。
家で遊ぶのに退屈したらお店に降りていったり、「しらいし」(換金所のことをそう呼んでいたのだけど、今調べてみたらそれが企業名だった。衝撃)のおばちゃんのところに潜り込んで、かぼちゃくらいの大きさしかないテレビを一緒に見てお菓子をもらったり、そば・うどんののぼりが立てられた近くの軽食屋さんを覗いたりして遊んでいた記憶もある。
父を知る大人たちのそばで遊ぶのは安心感があったような気がする。皆優しく、怖がらなくて良かったから。
朝はだいたい開店準備をする父のそばをうろちょろしながら、パチンコ屋の店内で幼稚園のお迎えのバスを待った。
退屈しているときは磁石のついたデッキブラシのような棒を借りてきて、それをひきずりながら店内を走り回った。そうすると地面に落ちていたパチンコ玉が棒の先にくっつくのだ。
その玉をドル箱に集めて、静かに並んだパチンコ台のうちの1つの前に座って玉を打つ。店内の玉掃除を兼ねたあそびだった。
「チューリップ」と呼ばれる左右に別れてパカパカ動くプラスチックの間に玉が入ったら当たり。デジタル化する前のシンプルなパチンコ台。
時々当たりが出て玉が増えてしまったりもした。個人的にはパチンコをするよりも、磁石の棒を持って店を走り回る時間のほうが楽しかった。
兄と2人のときもあったし、1人のときもあったし、妹と2人のときもあったような気がする。4,5歳だったと思うのだけど、もう細かな状況までは覚えていない。何度も思い返して、オリジナルの記憶が上書きされすぎたのかもしれない。
父は子供の面倒を甲斐甲斐しく見るような人ではなかったから、いつも働く父の様子を見ながら自分から寄っていった。
その頃はまだパチンコ台の当たりやすさを釘師が調整する時代で、朝の父はいつも片方がペン、片方がパチンコ玉の形になった道具を耳にかけていた。打った釘の間をパチンコ玉が通るかどうかをそのペンで確認するのだ。
昼や夜には左右が赤鉛筆と青鉛筆に分かれているものが乗っているときもあったし、タバコが1本乗っていることもあった。
何度か真似してみたけど、子供の耳の上にはペンは乗らなかった。
台を開いて真剣な顔で釘を動かす父は子供の目にもかっこよかった気がする。現場からマネジメントの方に仕事が移っていってから、父がパチンコ玉のついたペンを耳にかけていることはなくなり、私もパチンコ店に出入りすることはなくなった。
パチンコ屋が世間でそれほど歓迎されていない商売だというのを私は年頃になるくらいまで知らなかった。何かと目立ちたがりだったのもあって「私のお父さんはパチンコ屋さんなんだよ」といつも友達に自慢していた気がする。自分が見ていた父の働く姿は真剣そのもので、子としてただ誇らしい存在だった。
今でもネットやなんかで「あの人はパチンコばっかりやってるダメな人で…」のようなどこかの誰かの描写を見聞きすると少しはっとする。内側から見ていたパチンコ屋の空気は人間味があって優しいものだったから。物事にはいろんな面がある。
体がどれだけ丈夫だったのか、父は家で休んでいるという日が全くと言っていいほどなかった。
風邪を引いて寝ていた記憶もない。常に職場の上の階や隣りに住んで、土日も正月もなく働いていた。遊びは遊びで大好きな人で、特にお酒と賭け事には目がないようなのだけど、外でどう遊んでいたのかは全然目にしていない。
「行ってきます」と出ていくときの厳しい顔と、「ただいま」と帰ってくるときのリラックスした顔。雨が降っている日は「今日は店が混む」と少し嬉しそうに出かけていった。飲んで帰ってくる日は顔がとろけそうなほど笑顔だったり、ある時は急に神妙な顔で哲学的な話をはじめたりもした。
今でも父という人の核心を私は知らないのかもしれないと思う。
父もそんなところまで立ち入られたくないのかもしれないと思う。でも本当は「誰も入ってきてくれない」なんて考えていたらどうしよう、という気もしてきて時々焦る。
ベルギーにはカジノがいくつかある。先日観光ついでに、海沿いの街オーステンデのカジノに夫ニレ―シュと立ち寄ってみた。
デジタルのスロットマシンはたくさんあったがパチンコ台はもちろんないし、ギラギラの蛍光灯に照らされた懐かしい空気ももちろん漂っていなかった。
せっかく来たから、とニレーシュと並んで少しだけスロットをした。オランダ語で書かれたルールもよく分からないし、適当にボタンを押す以外することがなくて全然楽しめない。
父の横で、集めた玉をパチンコ台の中に片付けるより楽しいギャンブルはこの世になかった。チューリップがパカパカするのを見ながら、自分の手より大きいハンドルをひねる。時々当たって、片付けたはずの玉が大量に戻ってくるのを私は残念がって、「お前当たっとるやないか」と父は嬉しそうに笑う。
その記憶が無性に恋しくなって、でもそれを遠い土地で育ったニレーシュに伝えようと試みる気にもなれなくて、ただ黙々と10ユーロを急ぐように使い切ってから外に出て、バーにお酒を飲みに行った。
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