時刻は17時30分。
ビシェノの町の図書館でPCをカタカタしたりしていたのを切り上げて、イーリの職場の駐車場に向かう。
午後の仕事を終えたイーリの車に乗せてもらって Pademelon Park パディメロンパークに向けて出発。ペンギンたちへの夕方のエサやりの時間だ。
服が魚まみれにならないように、車にはいつもイーリと私の分の作業着が積んである。1日の終りには家でザッと水洗いして干しておいて、朝になるとまた車に積む。ボロボロだけど愛着のわくユニフォーム。
パークの入り口で車を降りて、2人ともこの作業着を着る。「さて、行こうか」という感じで気合いが入って、ちょっといい。
パディメロンパークにウォンバットの赤ちゃんがやってきた
ある日の夕方、「ハイ、ヴィッキー!」とキッチン付きの小屋に入ると、ヴィッキーの胸に抱かれて、何かのちいさな赤ちゃんがいた。
「今朝来たの。交通事故でね。赤ちゃんだけ助かったって」
ウォンバットの赤ちゃんだった。
動物たちはいろんな経緯でやってくる
タスマニアでは、動物と車の接触事故(ロード・キル road kill)がとにかく多い。実際に車で道路を走っているとあちこちに動物たちの死骸を見かける。
ウォンバットやカンガルーたちはお腹の袋で育児をするため(有袋類)、交通事故のときお腹にいた子供だけが助かるというケースがよくあるのだそうだ。
photo: ROUGH GUIDES
動物を轢いてしまった地元の人たちが「その動物のお腹に子供がいないか」を確認するというのもこの土地ならではの習慣だと思う。
そんな動物たちはふつう地元の動物園や動物たちの保護施設に届けられるのだけど、地元の人たちの口コミや夫婦の飼育スキルの評判から、ジェフ&ヴィッキー夫婦を直接たずねてくる人たちも多くいるのだという。
傷つけるのも人、助けるのも人
「飲みなさい、ほらほら! なんていい子なの。かわいいリトル・ボーイ!」
まだ毛も生えておらず、手のひらのさらに半分くらいしかない赤ちゃんは、だいじに毛布に包まれて、ちいさな哺乳瓶からミルクを与えられている。
自分でミルクを吸えない赤ちゃんには、スポイトの先の方に少しだけミルクを溜め、口へ押し出し、飲むのを待ち、また少しだけミルクを溜め、押し出し、というのをゆっくりと続ける。
肺に入ってしまったら自分で吐き出すことができず、肺炎になってじきに死んでしまうのだそうだ。
photo: Gallery_Pademelon Park
休みなし。突然はじまる長い子育て
さて、このウォンバットちゃん。ミルクの時間は4時間おきなのだという。
…4時間おき。
「ちょっと息抜きに遠出」 できない。
「疲れちゃったから遅くまで寝ようかな」 できない。
「具合悪くなって入院」 できない。
前触れもなく、ある日突然「面倒を見てください」とやって来た日から、朝も夜もなく4時間おきにミルクをあげなくてはいけない生活が始まる。そしてウォンバットの赤ちゃんの場合、その状態が1年以上つづくという。
日々の記録が次の参考書になる
長い時間をかけて、ようやくミルクを飲み終わった赤ちゃん。ヴィッキーは赤ちゃんを抱えたまま何かをファイルに書き込んでいる。
赤ちゃんが飲んだミルクの量を、毎回正確に記録しているのだった。1日6回、1ml単位の正確な記録だ。これが今後のためになるのだという。
このPademelon Park パディメロンパークを開く前、Vickiは、Nature World ネイチャー・ワールド という地元の野生動物公園に勤めていたという。そこで動物たちの飼育をしながら、その生態についても深い知識を身につけてきた。
例えば野生動物の赤ちゃんが親元でどんなふうに大きくなるかという知識があったとしても、保護された赤ちゃんたちには「親に育てられる」のと同じ環境を作ってあげることはできない。
いつ、どのくらい、何を、どのように食べさせたらいいのか。どのような環境が最適なのか。すべてのことについての知識は実践を通じて得ていくしかないのだそうだ。
もちろんそれは動物の種類によっても全く違うし、その動物たちがいま生後何ヶ月なのかによっても違う。
そして、たとえ生後1ヶ月のウォンバットのミルクの分量を知っていたって、その飲ませ方を知らなかったらアウトだ。野生のサイクルからはみ出してしまった動物を育て上げることは至難の業なのだった。
実践からしか得られないノウハウ
「分からないことは調べて、それでも分からないことはトライ&エラーしかないの」
ヴィッキーに抱かれてミルクを飲み終わった赤ちゃんは、フリース地のふくろに入れられて、温度と湿度が保たれている保育器の中に戻される。保育器の中で、そのふくろは宙に吊るされている。床に置くより吊るしたほうが、お腹のなかの環境に近づけられるのだそうだ。
人間以外の赤ちゃん用に作られた保育器があることを私は知らなかった。というか、考えたことがなかった。
袋を吊り下げることで、ウォンバットの赤ちゃんが育つ環境に近づけられることももちろん知らなかった。
(次話へつづく)